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2009年03月 アーカイブ

2009年03月06日

連邦は諸州よりも年長かといったような疑問

連邦は諸州よりも年長かといったような疑問が出て州の権限に関する議論が盛んになった。連邦政府は実質的な権力を持っていると考えられるか、あるいは主権者としての州の自発的な連邦に過ぎないか、などが議論された。歴史家のケネス・M・スタンプによれば、各派が都合のいい時に州の権限という議論を使い、都合のいい時にその立場を変えた[14]。

スタンプはアメリカ連合国副大統領アレクサンダー・スティーヴンズの「州間の先の戦争について憲法の見方」を南部指導者の例に挙げている。スティーヴンズは戦争が始まった時には「奴隷制は連合国の礎石」と言い、南部が敗北したときには「戦争は奴隷制のためではなく、州の権限のためだった」と言った。スタンプはスティーヴンズが南部の負けた原因の最も熱心な弁護者の一人となったと言った。

歴史家のウィリアム・C・デイビスも南部の州の権限に関する議論に矛盾性を挙げている。デイビスの説明では、連合国の憲法による国全体での奴隷制の擁護について次のように挙げていた。

“ 古い連邦では、連邦政府の権力では州の奴隷制問題に干渉する権限は無いと言っていた。新しい国については、州は連邦の奴隷制擁護に干渉する権限は無いと宣言するだろう。州の権限ではなく、奴隷制が彼らの運動の中心にあるという事実に対する多くの証拠の中で、これが取り分け雄弁なものである。 ”

新領土における州の権限と奴隷制
「州の権限」議論は問題を複雑にした。南部の者達は合衆国憲法修正第10条で担保された州の権限について連邦政府は厳しく制限されており、それを簡略化はできないと主張し、それ故に新しい領土に奴隷制を持ち込むことを妨げられないとした。州の権限の主張者は憲法の逃亡奴隷条項も引用して北部に逃げた奴隷に連邦の法制が及ぶことを要求した。反奴隷制勢力はこの問題について逆の立場を採った。憲法の逃亡奴隷条項は憲法が書かれた時の北部と南部の妥協の産物であった。それは1850年の妥協の一部となった逃亡奴隷法によって強化された。南部の政治家で州の権限の提唱者であるジョン・カルフーンは、新しい領土を主権のある諸州の「共通の財産」と見なし、連邦議会は諸州を「つなぎ止める役割」に過ぎないと言った[16]。

州の権限と少数派の権利
州の権限理論は、北部の人口が南部よりも急速に成長しているという事実があり、そのことは北部が連邦政府を支配するのは時間の問題となった時の反応であった。南部の者達は「自覚のある少数派」として行動し、憲法の厳密な解釈によって連邦政府の州にたいする権力を制限し、連邦政府が州の権限に干渉してくることに対して防衛すること、あるいは無効化、あるいは脱退が南部を救うと期待した[17]。1860年以前、大半の大統領は南部か南部寄りであった。北部の人口成長は北部寄りの大統領選出を意味し、自由土地州を増やすことは上院でも北部と南部の対等関係を終わらせることであった。歴史家のアラン・ネビンスが述べているように、南部の政治家カルフーンの州の権限に関する理論は「政府は少数派を守るように作られ、多数派については自分達で面倒が見られる」というものだった。

ジェファーソン・デイヴィスは「中傷的な差別」と「抑えの効かない多数派の専制」に対して「自由」を守る戦いが連合国に加わった州の脱退する権利を与えたと言った[19]。1860年サウスカロライナ州選出の下院議員ローレンス・M・カイトは「反奴隷制の党派が奴隷制そのものが悪いと主張し、政府は強固になった国の民主主義と主張している。我々南部の者は奴隷制が正しいと主張し、これが主権のある諸州の連合共和国だと主張する。」と言った[20]。

南部の選ばれた指導者ジェファーソン・デイビスは州の平等な権限という言葉で平等を定義した[21]。また、全ての者は平等に生まれているという宣言に反対した[22]。憲法は、各州が同じ数の上院議員を持つということ、またある権利は州または人民に担保されると言うことに州の権限の要素を含めているのではない。デイビスのような南部の者はこれらの権利を北部の多数派に対する楯として解釈した。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

南部人の近代化に関する恐れ
歴史家のマクファーソンによれば、北部が奴隷制を段階的に廃止し、都市集中を生む産業革命を始め、教育の機会を増やし、奴隷制廃止運動のような社会改革を進めた後では、従来のアメリカ例外主義(American exceptionalism、アメリカが世界の中では例外的でかつ優れた国であるという考え)は南部ではなく北部のみに適用されるようになったという。北部では8人の開拓者のうち7人が移民であり、南部を離れて北部に移った白人の数がその逆の場合の2倍もあるという事実は、南部をして防衛的かつ挑発的な政治行動をさせることになった。「ザ・チャールストン・マーキュリー」紙は北部と南部の奴隷制問題について「単に2集団の人々ではなくて両者は競争者であり敵対的な集団である」と書いた[23] デボウズ・レビューにも、「我々は革命に抵抗している。...我々は人の権利についてキホーテの戦いをしているのではない。...我々は保守的である。」と述べられていた

2009年03月21日

つがる (列車)

つがるとは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が八戸駅?青森駅・弘前駅間を東北本線・奥羽本線を経由して運転している特急列車の名称。

この名称はかつて「津軽」と漢字書きで、上野駅?青森駅間を東北本線・奥羽本線経由で結ぶ急行列車の名称として使われていた。

八戸駅?青森駅間が主だが、弘前駅にも大部分の列車が乗り入れている。また、八戸駅において東北新幹線「はやて」に連絡するダイヤを組んでいる。

列車の号数は、「はやて」に連絡する列車は「はやて」の列車号数を付番し、連絡しない列車は空き番号の「40番台」を付番する。この付番方法は、「白鳥」・「スーパー白鳥」にも共通である。

なお、青森駅?弘前駅間はそのままの名称で運行されることから上り列車・下り列車の列車番号、列車の号数の順序が同じ区間を走る他の列車とは逆になる。また、弘前発着の列車が大雪等で大幅な遅延が発生した場合には、青森?弘前間が区間運休となることがある。その場合、運休区間は701系電車による代走か、又は発車時刻が近接する「かもしか」が浪岡駅に臨時停車するなどして運休列車の代替となる場合がある。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

つがる6号は土曜日を中心に弘前→青森駅間を延長運転している。運転開始当初は毎日運転であったが、利用者が低調であったことから、現在の形態に変更された。

青森ねぶた・弘前ねぷた期間中には、「つがる29号」(2005年までは「25号」)が観光客の輸送の為に弘前駅→秋田駅間を臨時列車扱いで延長運転している。

停車駅 [編集]
定期列車の停車駅を示す。
八戸駅 - (三沢駅) - (野辺地駅) - (浅虫温泉駅) - 青森駅 - (浪岡駅) - 弘前駅
括弧書きの駅には一部列車通過。
使用車両
485系3000番台(青森車両センター所属)
E751系電車(同所所属)
789系電車(JR北海道・函館運輸所所属)
2009年現在、JRグループで3形式の電車が使用されている特急列車は「つがる」と「きらめき」のみである。但し、これには「スーパー白鳥」・「白鳥」や「サンダーバード」・「雷鳥」の様に使用車両と列車名が固定されておらず、単一の列車名で用いているからである。

編成 [編集]
全席禁煙
記号凡例
G=グリーン座席指定席
指=普通車座席指定席
自=普通車自由席
6両編成
←八戸・弘前青森→
1 2 3 4 5 6
指 自 自 自 指 指 G

トイレ・洗面所…1?4・6号車

8両編成
←八戸・弘前青森→
1 2 3 4 5 6 7 8
指 自 自 指 指 指 指 指 G

トイレ・洗面所…1?6・8号車

485系3000番台(6両または8両編成)
2006年3月18日の改正から3000番台のみが運用される。
下りは17号、27号、31号、上りは16号で運用される。また43号の1号車は自由席となっている。

←八戸・弘前青森→
1 2 3 4 5 6
指 自 自 自 指 指 G
トイレ・洗面所…2・4・6号車
E751系電車(6両編成)
「つがる」以前は「スーパーはつかり」で用いられていた。
下りは43号、7号、13号、23号、29号、33号、上りは2号、8号、12号、24号、30号、98号で運用される。
検査等で485系6両編成が代走することがある。代走する列車は固定されており、485系で運転することを念頭に置いたダイヤが組まれている。ただしE751系が事故等で2編成運用に入れない場合、E751系を念頭に置いたダイヤに485系で運転されるため、八戸?青森間で約10分の遅れが発生する。

←八戸・(弘前)青森→
1 2 3 4 5 6
G 指 自 自 指 指 指
トイレ・洗面所…1・4・6号車
(増結の場合、変動する可能性あり)

789系電車(6両または8両編成)
スーパー白鳥用の車両。運用上の都合で上りの「つがる6号」のみに充当される。

車内販売 [編集]
朝・晩の一部列車を除いて日本レストランエンタプライズ(NRE)盛岡営業支店青森営業所が担当する。

担当車掌区 [編集]
八戸?青森間 - 八戸運輸区・青森運輸区・弘前運輸区
青森?弘前間 - 青森運輸区・弘前運輸区
※弘前発着の一部列車は青森で車掌が交替となる(主に八戸運輸区?青森運輸区)。

列車名の由来 [編集]
本来は、青森市を含めた青森県県西部の郡名及び地域名に由来する。八戸駅?函館駅間の特急列車名称の一般公募では2位にランクされていた。


津軽・つがるの名称を使用した列車の沿革 [編集]

東京?秋田・青森間 急行「津軽」 [編集]
1950年代?1960年代、東北地方では東京方面への出稼ぎや集団就職が盛んであったが、奥羽本線沿線(山形県・秋田県・青森県西部の地域)出身の人々にとっては長らく沿線を走る唯一の優等列車が「津軽」であり、集団就職列車や長距離鈍行列車によってそれらの地域から上京した人々は、同列車の特に一等車(後のグリーン車)を使用して帰郷することを目指したためか、いつしか「津軽」はマスコミなどから「出世列車」と呼ばれるようにもなった。

あけぼの (列車)の項も参照されたい。
1954年(昭和29年)10月 上野駅?青森駅間を上越線・羽越本線経由で結ぶ臨時の夜行急行列車として、「津軽」(漢字書き)が運転を開始。
1956年(昭和31年)11月 - 東北本線・奥羽本線経由に経路変更し、定期列車となる。
1965年(昭和40年)10月 - 急行「おが」1往復を青森駅まで延長し、「津軽」に名称変更。2往復体制となる。
1990年代前半まで繁忙期には、上野駅?弘前駅間に1?2往復の臨時列車を運行する。
1978年(昭和53年)10月 - 座席車を旧型客車から12系客車に変更する(寝台車は10系客車のまま変わらず)。
1982年(昭和57年)11月15日 - 2往復中1往復を廃止し、車両を20系客車に変更する。
この改正では同時に気動車急行「出羽」や季節急行「ざおう」等の奥羽本線の夜行急行も廃止となり、それまで最低20両はあった自由席が定期列車では「津軽」の3両だけとなった。しかも、「津軽」では定員の少ないナハ21を自由席として使用していたため、通路・デッキ・洗面所に至るまですし詰め状態となり、繁忙期には満員のため積み残しを出す事態が続いた。急遽、B寝台車2両の寝台をセットせず自由席開放し、季節急行「おが」の運転日を増やすことで対処した。
1983年(昭和58年)7月1日 - 車両を20系客車から14系客車に変更する。
混雑が続く「津軽」と季節急行「おが」の車両を交換し、ようやく事態は落ち着いたが、「津軽」から寝台車の連結が中止となった。
1984年(昭和59年)2月1日 - 10両編成中4両を座席車から寝台車に変更する。
寝台車がなくなったことへの不満や苦情が多いことから、寝台特急「紀伊」廃止で捻出された14系3段寝台車でB寝台の連結を再開した。ただし、旧盆や年末年始の最繁忙期は混雑緩和のため、臨時特急「あけぼの51・52号」の14系座席車編成と車両交換を行った。
1985年(昭和60年)3月14日 - 車両を全車座席車に再度変更する。
急行「銀河」14系化の車両捻出のため、「津軽」・「妙高」用のB寝台車を尾久客車区から宮原客車区へ転属した。
1990年(平成2年)9月1日 - 車両を14系客車から583系電車に変更する。また、山形新幹線改軌工事の開始により、福島駅?山形駅間は東北本線・仙山線経由に経路変更する。
1992年(平成4年)7月1日 - 車両を485系電車に変更する。
1993年(平成5年)10月1日 - 使用車両を485系電車から583系電車に変更する。
1993年(平成5年)12月1日 - 急行「津軽」を廃止。以降は臨時列車として運行する。
1997年(平成9年)1月 - この時期を最後に、臨時急行「津軽」の運行を終了する。
2001年(平成13年)12月29日(下り上野発)・翌年1月3日(上り青森発) - 臨時急行「なつかしの津軽」を、陸羽東線経由で14系客車を使用してリバイバル運転。

盛岡・八戸?青森・弘前間 東北新幹線連絡列車「はつかり」・「つがる」
1982年(昭和57年)11月15日 それまで上野駅?青森駅間を運行していた特急列車の愛称であった「はつかり」が、東北新幹線の大宮駅?盛岡駅開業によって廃止され、代わりに新幹線接続列車として盛岡駅?青森駅間に運転を開始した特急列車の名称に「はつかり」の名が採用された。なお、それ以前の「はつかり」については、東北本線優等列車沿革の項目を参照されたい。
なお、週末のみ1往復が青森駅?弘前駅まで延長運転された。しかし、東北自動車道経由で盛岡駅と弘前駅を結ぶ高速バス・ヨーデル号が運行を開始し、弘前市周辺の住民に東北新幹線を利用するための高速バス利用が定着した。そのため、後にこの「はつかり」延長運転は廃止された。
1988年(昭和63年)3月13日 青函トンネルの開業により、一部の「はつかり」が函館駅まで延長される。
1996年(平成8年)3月 特急「はつかり」に485系3000番台の使用を開始。
2000年(平成12年)3月11日 速達型列車「スーパーはつかり」の運行開始。新しく開発されたE751系電車を使用。また、「はつかり」のエル特急の指定を解除する。
2002年(平成14年)12月1日 八戸駅?青森駅・弘前駅間に、それまで盛岡駅?青森駅間を運転していた「はつかり」を引き継ぐ形で、特急列車「つがる」(平仮名書き)の運転を開始。また盛岡駅・青森駅?函館駅間を運転していた「はつかり」に関しては、八戸駅・青森駅?函館駅間運転の特急「白鳥」・「スーパー白鳥」となり、「はつかり」・「スーパーはつかり」の愛称はこの時消滅した。
2003年(平成15年)8月2日 - 2002年まで運転されていた青森?秋田間臨時特急「ねぶた」を受け継ぐ形で、25号(現29号)を弘前?秋田間延長運転。以後、毎年8月2?6日運転。
2006年(平成18年)3月18日 「スーパー白鳥」の間合い運用で「つがる」上り1本が789系電車による運用となる。
2007年(平成19年)3月18日 「つがる」全列車全席禁煙となる。

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