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連邦は諸州よりも年長かといったような疑問

連邦は諸州よりも年長かといったような疑問が出て州の権限に関する議論が盛んになった。連邦政府は実質的な権力を持っていると考えられるか、あるいは主権者としての州の自発的な連邦に過ぎないか、などが議論された。歴史家のケネス・M・スタンプによれば、各派が都合のいい時に州の権限という議論を使い、都合のいい時にその立場を変えた[14]。

スタンプはアメリカ連合国副大統領アレクサンダー・スティーヴンズの「州間の先の戦争について憲法の見方」を南部指導者の例に挙げている。スティーヴンズは戦争が始まった時には「奴隷制は連合国の礎石」と言い、南部が敗北したときには「戦争は奴隷制のためではなく、州の権限のためだった」と言った。スタンプはスティーヴンズが南部の負けた原因の最も熱心な弁護者の一人となったと言った。

歴史家のウィリアム・C・デイビスも南部の州の権限に関する議論に矛盾性を挙げている。デイビスの説明では、連合国の憲法による国全体での奴隷制の擁護について次のように挙げていた。

“ 古い連邦では、連邦政府の権力では州の奴隷制問題に干渉する権限は無いと言っていた。新しい国については、州は連邦の奴隷制擁護に干渉する権限は無いと宣言するだろう。州の権限ではなく、奴隷制が彼らの運動の中心にあるという事実に対する多くの証拠の中で、これが取り分け雄弁なものである。 ”

新領土における州の権限と奴隷制
「州の権限」議論は問題を複雑にした。南部の者達は合衆国憲法修正第10条で担保された州の権限について連邦政府は厳しく制限されており、それを簡略化はできないと主張し、それ故に新しい領土に奴隷制を持ち込むことを妨げられないとした。州の権限の主張者は憲法の逃亡奴隷条項も引用して北部に逃げた奴隷に連邦の法制が及ぶことを要求した。反奴隷制勢力はこの問題について逆の立場を採った。憲法の逃亡奴隷条項は憲法が書かれた時の北部と南部の妥協の産物であった。それは1850年の妥協の一部となった逃亡奴隷法によって強化された。南部の政治家で州の権限の提唱者であるジョン・カルフーンは、新しい領土を主権のある諸州の「共通の財産」と見なし、連邦議会は諸州を「つなぎ止める役割」に過ぎないと言った[16]。

州の権限と少数派の権利
州の権限理論は、北部の人口が南部よりも急速に成長しているという事実があり、そのことは北部が連邦政府を支配するのは時間の問題となった時の反応であった。南部の者達は「自覚のある少数派」として行動し、憲法の厳密な解釈によって連邦政府の州にたいする権力を制限し、連邦政府が州の権限に干渉してくることに対して防衛すること、あるいは無効化、あるいは脱退が南部を救うと期待した[17]。1860年以前、大半の大統領は南部か南部寄りであった。北部の人口成長は北部寄りの大統領選出を意味し、自由土地州を増やすことは上院でも北部と南部の対等関係を終わらせることであった。歴史家のアラン・ネビンスが述べているように、南部の政治家カルフーンの州の権限に関する理論は「政府は少数派を守るように作られ、多数派については自分達で面倒が見られる」というものだった。

ジェファーソン・デイヴィスは「中傷的な差別」と「抑えの効かない多数派の専制」に対して「自由」を守る戦いが連合国に加わった州の脱退する権利を与えたと言った[19]。1860年サウスカロライナ州選出の下院議員ローレンス・M・カイトは「反奴隷制の党派が奴隷制そのものが悪いと主張し、政府は強固になった国の民主主義と主張している。我々南部の者は奴隷制が正しいと主張し、これが主権のある諸州の連合共和国だと主張する。」と言った[20]。

南部の選ばれた指導者ジェファーソン・デイビスは州の平等な権限という言葉で平等を定義した[21]。また、全ての者は平等に生まれているという宣言に反対した[22]。憲法は、各州が同じ数の上院議員を持つということ、またある権利は州または人民に担保されると言うことに州の権限の要素を含めているのではない。デイビスのような南部の者はこれらの権利を北部の多数派に対する楯として解釈した。
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南部人の近代化に関する恐れ
歴史家のマクファーソンによれば、北部が奴隷制を段階的に廃止し、都市集中を生む産業革命を始め、教育の機会を増やし、奴隷制廃止運動のような社会改革を進めた後では、従来のアメリカ例外主義(American exceptionalism、アメリカが世界の中では例外的でかつ優れた国であるという考え)は南部ではなく北部のみに適用されるようになったという。北部では8人の開拓者のうち7人が移民であり、南部を離れて北部に移った白人の数がその逆の場合の2倍もあるという事実は、南部をして防衛的かつ挑発的な政治行動をさせることになった。「ザ・チャールストン・マーキュリー」紙は北部と南部の奴隷制問題について「単に2集団の人々ではなくて両者は競争者であり敵対的な集団である」と書いた[23] デボウズ・レビューにも、「我々は革命に抵抗している。...我々は人の権利についてキホーテの戦いをしているのではない。...我々は保守的である。」と述べられていた

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2009年03月06日 09:22に投稿されたエントリーのページです。

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