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2009年04月 アーカイブ

2009年04月05日

稀な多面ダイス

16面、24面、30面、60面、120面などのダイスも稀に見られる。いずれもサイコロに適した形状をしているため、実用に向く。ただし、ホビー用のサイコロはそれほど精度が高くない。

非実用的な多面ダイス [編集]
なお、玩具として、「各面の面積や形状が異なる」「各面が不均等な配置」などのものも売られているが、出目は統計的に好ましくなく、実用的ではない。正角柱で底面も使用するものや、ゾッキヘドロン(Zocchihedron)と呼ばれる100面ダイスなどが挙げられる。また、完全に球状のサイコロで、内部にくぼみが設けられた空洞があり、振ると空洞内に入れられた鉄球がくぼみに入って目が出るような物もある。

ただし、各出目の出現確率が不均等である点を逆手に取り、特定の「出にくい目」などの効果を狙う使用法もある。たとえばまわり将棋では出目に大きく差がある将棋の駒をサイコロ代わりに使う。

また、特に球を元に作られたものをゴルフボール形ダイスという場合があり、以下に示す画像では、32面、50面、100面のサイコロがこれに相当する。

新羅時代の朝鮮半島では、切頂八面体を変形して各面の面積をほぼ同じにした正方形6面、六角形8面の14面のサイコロが用いられたことがある

目の異なるサイコロ [編集]
普通のサイコロは、6面体なら1?6、20面体なら1?20と、各面に1からそのサイコロの面数までの数を示す目を持つが、それとは異なる目を持つサイコロも存在している。

数の範囲が異なるサイコロ [編集]
市販の6面ダイスに限っても、以下の目を持つサイコロなどが存在する。
0, 1, 2, 3, 4, 5
1, 1, 2, 2, 3, 3
0, 0, 0, 1, 1, 1
-1, -2, -3, -4, -5, -6
1/6, 1/3, 1/2, 2/3, 5/6, 1
1, 1/2, 1/3, 1/4, 1/5, 1/6
5, 6, 7, 8, 9, 10
7, 8, 9, 10, 11, 12
13, 14, 15, 16, 17, 18
2, 4, 8, 16, 32, 64(ダブリングキューブ バックギャモンでの倍率表示用)
I(1), V(5), X(10), L(50), C(100), D(500)(ローマ数字)

数以外を示すサイコロ [編集]
数以外を目に持つサイコロも各種存在しており、非常にバリエーションも豊富である。

When, Where, Who, What, Why, How(5W1H。6面)
+, ?, ×, ÷, =, >(算術記号。6面)
N, NE, E, SE, S, SW, W, NW(方位。8面)
Sun, Moon, Mercury, Venus, Mars, Jupiter, Saturne, Uranus, Neptune, Pluto(天体。10面)
January から December まで(12ヶ月。12面)
白羊宮から双魚宮まで(黄道十二宮。12面)

占術用サイコロ [編集]
易占専用に作られたサイコロも存在する。これは、主に略筮法を模擬するもので、

8面ダイス2個(数字の代わりに、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の8文字が彫られている)
6面ダイス1個(同じく、初・二・三・四・五・上の6文字)
以上の組み合わせから成る。中筮法を模擬するため、8面ダイスが6個使われることもある。入れたままでサイコロを振ることができる、専用の箱も市販されている。なお、八卦にはそれぞれ数字が配当されているため、通常の8面ダイスの数字を適宜読み替えて使用することも可能であるが、利便性は若干劣る。

麻雀用サイコロ [編集]
麻雀では、一般的には通常のサイコロを2つ同時に振り、開門個所(最初に牌を取る場所)を決定する。しかし、出目の関係から開門する場所に偏り(東家から順に8/36・9/36・10/36・9/36の確率)があり、また全自動麻雀卓がまだ普及していなかった時代は積み込みが横行していたため、それらを解決するためにパッコロと呼ばれる麻雀専用のサイコロが考案された。これは2種類の正十二面体のサイコロがセットになったものである。これらは、以下の目を持つ。

開門用黒サイコロ
漢数字で一?十二の目を持つ。
場決め用赤サイコロ
東南西北がそれぞれ3つずつの目を持つ。
パッコロを採用したルール(立方体のサイコロ2個の2度振りも選択できる)もあるが、実際にはほとんど普及していない。

立方体のサイコロ2個の1度振りでも開門する場所に偏りが出ない方法も考案されている。5の目を4に変え、1・2・3・4・4・6の目を持つサイコロと普通のサイコロを1個ずつ使用することによって、各家ともに9/36(1/4)の確率となる[2]。

カレンダー用サイコロ [編集]
遊戯に用いるものではないが、サイコロ型の万年カレンダーが発売されている。4個の立方体で構成されており、月を表すサイコロ1個、日を表すサイコロ2個、曜日を表すサイコロ1個で構成されている。日を表すサイコロは一方に0・1・2・3・4・5、もう一方に0・1・2・6・7・8が書かれており、9は6を上下逆に置くことにより1日から31日までの日付がすべて表現できる。観光地の土産物として売られていることがある。

天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

2009年04月22日

ロマノフ朝により庇護と統制

ロマノフ朝により庇護と統制の両方を受けつつ存続してきたロシア正教会は、20世紀初頭にも文化面での繁栄を19世紀に引き続いて継続していたが、20世紀前半に起きたロシア革命によって大きな打撃を蒙ることとなった。ロシア正教会側の対応は、ロシアに残って白軍に協力して共産主義勢力に抵抗する者や、ロシアに残って共産主義勢力に一定程度妥協する者、亡命する者、などに分かれたが、やがて共産主義に抵抗する者は白軍とともに一掃され、殺害されるか国外に亡命するかのいずれかに至った。

共産主義政権による弾圧の概要
20世紀に入り、1917年のロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。ニコライ2世をはじめとする皇帝一家も銃殺刑に処された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたとする文献もある。

当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)は、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ、多数の亡命者も出た。

教会は文化面でも多大な弾圧を被った。当時最も活躍しており多作な聖歌作曲家の一人であったパーヴェル・チェスノコフも革命以降は聖歌作曲を禁じられ、全ての音楽家が聖歌に関わることを禁止もしくは制限された。革命後、ソ連時代を通じてペレストロイカより前に聖歌の録音が許されたのは、セルゲイ・ラフマニノフの作品『晩祷』を世俗合唱団が録音した一回のみである。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂がダイナマイト爆破された。他にもクロンシュタットのイオアンが奉職していた聖アンドレイ大聖堂や、カザン・クレムリン(世界遺産)の生神女福音聖堂(ブラゴヴェシェンスキー聖堂・破壊は1930年)も破壊されている。

弾圧の度合いの濃淡
ソ連時代を通じてロシア正教会は過酷な弾圧の下にあったが、その度合いは一様ではなかった。先述したように腐敗していたロシア正教会につき、当初ボリシェヴィキ・ソ連政府は弾圧を加えればあっさり瓦解し消滅すると考えていたのだが、多数の致命者を出してもなお正教会の信仰が消滅しない現実を目の当りにして、一定程度の宥和策をとる方向へ方針転換する必要が認められたからであった。ただし宥和策といってもあくまで相対的なものであって、教会が抑圧の対象であることには変わりなかった。

1943年のナチス・ドイツの侵攻に対してソ連人民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていた総主教の選出を認めた。この時選出されたのがセルギイ(・ストラゴロドスキイ)総主教である[29]。それまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

だがスターリンの死後、フルシチョフは再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ


このように、ソ連邦時代は確かに統制の程度に濃淡はあったものの、総じてロシア正教会にとっては受難の時代以外の何物でもなかった。神父は聖堂での奉神礼の中で行われるもの以外には説教を禁じられた。埋葬の際にロシアに伝統的であった、聖歌隊と司祭が信徒達を先導して聖堂から墓地まで聖歌を歌いつつ永眠者の棺を運んで行進するという習慣などは勿論認められず、墓地における埋葬の際には司祭は祭服の着用を聖堂外では許されておらず、墓地において最後の祈りを捧げることも許されなかった。出版物には厳重な検閲が行われた。全ての宗教を弾圧するソ連にあって、計画経済の下で聖書や祈祷書・聖歌譜の印刷などに割り当てられる資材はごく僅かであり、聖職者や神学生達は限られた印刷物を使いまわしたり先人からのお下がりを貰い受けたりするなどして物理的不足をしのいだ。勿論当局に対する批判は許されず、スパイも活用した秘密警察によって一般社会と同様、教会は監視を受け続けた。

他方で、弾圧を緩和して信徒を守るため、ソ連当局に対して一定の協力を行った、あるいは強制された聖職者達が居たのは事実である。これには「やむをえない」面もありそのためにロシア正教会は存続することができたのは確かだが、同時に「当局との癒着」の疑義も生まれてしまうこととなった(事実、癒着していた聖職者も居た)。この疑義は現在に至るまでロシア正教会への不信感の源となっており、ロシア正教会自身にとっても解決の容易でない頭痛の種となっている。

弾圧・抑圧は、ペレストロイカ時代に至ってようやく緩和された。

亡命者達
ヨーロッパや北アメリカに亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民が建てた各地のロシア系正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリやニューヨークでロシア正教会の神学校が建ち、20世紀における神学研究の1つの中心となった。

その一方で、新たな教会を設立・存続させていくグループも存在した。これを在外ロシア正教会(ROCOR、Russian Orthodox Church Outside Russia)と呼び、1922年にセルビアのスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) に集った亡命ロシア人主教達によって設立された。在外ロシア正教会は1927年にソヴィエト政府に対する忠誠の誓約を要求した総主教代理代行セルギイ(・ストラゴロドスキイ)の総主教位継承を認めず、セルギイの後継者達に対しても長くその正統性を認めなかった。他方、さまざまな事情から亡命先の各地正教会とも若干の摩擦が起こり、その教会法上の立場の不安定性から、長く他の正教会との間に相互領聖の関係が構築されないままとなった。

2009年04月23日

ロタール1世

ロタール1世(Lothar I,795年 - 855年9月29日)は、父ルートヴィヒ1世と共同皇帝(在位:817年 - 840年)、単独での皇帝(在位:840年 - 855年)。中フランク王(在位:840年 - 855年)。
795年、ロタールは、カール大帝の息子ルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ1世)の長男として生まれた。即ち、カール大帝の孫にあたる。祖父カール大帝は、この5年後にあたる800年、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授かった。(「カールの戴冠」)

フランク族の伝統に従い、祖父カール大帝はその領土を分割相続する手筈を整えた。ところが、息子があいついで没したため、ロタールの父ルートヴィヒが単独相続することになった。祖父カール大帝が没した814年、ロタールは父からバイエルンの支配を任された。

父ルートヴィヒ1世は敬虔王の異名を持ち、宮廷内の粛正を図るなど敬虔、厳格な人物であった。その彼は、アーヘンの王宮の一部が崩壊し負傷したことを、死の訪れという神の意志と判断し、817年、3人の息子への帝国分割を定めることにした(結局、父ルートヴィヒはその後23年間も長生きするのだが)。

兄弟間での確執
こうした経緯で、長男のロタールは父ルートヴィヒとともに帝位についた。(なお、2男ピピンはアキタニア王、3男ルートヴィヒ(のちの東フランク王ルートヴィヒ2世 )はバイエルンを任された。ただし、ルートヴィヒの死後はロタールのものになるとされた。)さらに818年、ロタールはイタリア王の地位を手に入れた。その後、ロタールは単独の帝位を狙って、幾度か父ルートヴィヒに反乱を起こすことになる。

「カールの戴冠」によって復興した「(西)ローマ帝国」は、宗教的権威の中心ローマと、政治的権力の中心アーヘンという、いわば二つの中心を持つ帝国であった。ロタールは、そのローマとアーヘンを結ぶライン川、モーゼル川流域などの支配を強化しようとしたが、これが兄弟同士の激しい抗争をもたらす。

当時、父ルートヴィヒの2番目の妻の息子、シャルル(のちのシャルル2世(禿頭王)がフランク王国西部で勢力を伸ばしていた。そのシャルルと、バイエルンなどを支配していた3男のルートヴィヒが、兄のこれ以上の権力強化を懸念して叛旗を翻すことになった。一方で、2男のピピンはロタールを支持していた。すなわち、シャルルとルートヴィヒ対ロタールとピピンという兄弟争いの構図が形成された。

フォントノワの戦い
841年、オーセール近郊のフォントノワで、兄弟同士の熾烈な戦闘が展開され、多くの戦士たちが命を失った。この時のあまりの犠牲が、ノルマン人に対する西欧の抵抗力を弱めたとする指摘すらある。この戦いで勝利したのは、シャルルとルートヴィヒであった。

まもなく初代西フランク王(フランス王)となるシャルルと、初代東フランク王(ドイツ王)になるルートヴィヒは、ストラスブール(シュトラスブルク)で、互いに協力し合う誓約を交わした。これが、842年の「ストラスブールの宣誓」と称される。20世紀に至るまで、独仏の果てしない争奪戦の舞台になるアルザスのストラスブール、その地で初代の王が手を結ぶのは歴史の皮肉である。

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こうして、ロタールは3男、異母弟との妥協を余儀なくされ、842年にブルグンド(ブルゴーニュ)のマコンで和平が成立した。その後、領土分割などをめぐっての数度の協議を経て、843年にヴェルダンで最終的な承認がなされた。

フランク王国の分裂
ヴェルダン条約では、三人の兄弟それぞれがフランク人の王であることが確認された。これをもって、フランク王国は正式に、西フランク王国(フランス王国)、東フランク王国(ドイツ王国)、中フランク王国へと分裂した。

855年、ローマ皇帝のロタール1世は、自らの死が目前であることを悟る。そして、長男ルートヴィヒ2世(ロタールの弟である東フランク王のルートヴィヒ2世とは異なるので注意されたい)に皇帝の称号とイタリア、次男のロタール2世にロタリンギア(ロレーヌ)など、三男のシャルルにニーダーブルグンドとプロヴァンスなどを分割相続した。こうして中フランク王国が三分された結果、フランク王国は5つにまで分裂してしまった。

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